あるジョブホッパーの軌跡

7転8起の人生

5社目② 40代後半

 1年ぶりの転職活動だ。早速、前回と同じく、既知のエージェントに声をかけるとともに、名だたる転職サイトにも、すべて、再登録し、良い案件があれば、ダメ元でも、申し込むという動きをとった。特に、今回の会社を紹介してくれた個人エージェントは、問題会社を紹介した責任を感じたのか、熱心に、案件を紹介してくれた。年齢、転職回数、1年での離職など、条件は、前回より格段に悪くなっているはずだったが、なんとなく、うまくいく気がしていた。1年前よりは、格段に、案件が多く、質が良い。ワンマンオフィスにいるために、転職活動もしやすいのは、有難かった。メールのチェックやエージェントとの電話が事務所で堂々とでき、面接日程も、自由に組める。前職にて、グループウェアに面接先を書いていたふざけた男も、その頃、会社で追い込まれていたようで、転職活動を始めていた。このような転職仲間がいるのは、精神衛生上、本当に、有難かった。会社がいよいよ事業撤退へ追い込まれる中、何社か面接を受け、落ちる中、諦めることなく、再度、既知のエージェントに、支援依頼のメールを打つ。
 直ぐに、あるエージェントから、案件の紹介があった。エージェントからの案件の紹介は、本当に嬉しいものだ。新しい出会いにドキドキするし、面接に至る確率も高い。見れば、関西本社のメーカだ。昔からよく知ってる会社で、こんな会社には、もう2度とは戻れないと思っていた会社である。1点、不安があるとすれば、未知の商材の事業企画職の採用であり、経験が活かせるかと懸念したが、ダメ元で、応募した。転職は、うまく行く時は、何事も速い。直ぐに、面接の案内が来た。取締役を中心に、3名の面接官との一次面談である。入りたい気持ちが強いためか、面接プレゼンも調子よく、特に、成功する時はいつものことながら、取締役との相性も良いようで、一次面接を突破した。事業企画職なので、会社の想定される問題点とその課題、解決策をセットで、提案、私なら解決できると思わせば、良いのだ。前回苦しんだ転職理由も、今回は、”事業撤退のため”と一言で片づけられた。その後、二次面接は、社長面接であったが、取締役のフォローもあり、無事、終了した。最後に、社長から、「塞翁さんは、何歳までこの会社にいるつもりか?」と聞かれた時は、即座に、「定年までです」と、当然のごとくに、応えておいた。エージェントからの内々定電話は、九州でのトラブル処理時に受け、感慨深かった。年収も、維持でき、本当に、ここで、定年まで、腰を落ち着けようと思ったものだ。
 東京本社に出張する機会があり、その時に、会社が、近々に買収されることを知った。同日に、エージェントから、内定電話がくる。すぐに、社長に、辞める旨を伝える。まさに、間一髪の転職であった。ちなみに、新会社に移った人は、その後、1人を残して、皆、首になる。
 今まで扱ったことのない商材、しかも事業企画、ということで、多少不安はあったが、会社側も、そんなことは、ご存知の中での採用であろうとたかを括る。結果的に、この会社にいる間、商材は、最後まで、よくわからなかったが、その後の事を考えると、これも良い経験となり、後々活きることになった。この転職は、私の転職歴の中で、唯一、エージェントがいたから実現できた案件である。エージェントが、私の事を理解し、転職先のこともよく知るからこそ、マッチングできた事例である。

5社目① 40代後半

 入社1か月ほどは、東京本社にて、営業同行等を行いながら商材を学ぶことになっていた。その間、関西の拠点を整え、立ち上げの準備をする。同じ日に、自分より年輩の開発者が入社しており、なんと、6社目の会社になるということで、驚いたものだ。入社初日に、営業会議なるものがあり、見学気分で参加した。皆、そこそこしっかりしており、人間的にも悪いものは、感じなかった。が、会議の内容を聞いて驚いた。参加者は、自分の手持ちの案件の話をするのだが、ほとんどが、曖昧で、確度が低いものばかりであった。売上が目標数字に大きく届かないことが容易に推測された。”これは、えらい会社に入社してしまったかもしれない”と感じたものだ。上場企業の子会社のため、その経営状況までもは、確認できず、社長、取締役の楽観的な話を信じるしかなかったのである。その後、酒席にて、社長に、何度か本音ベースで、経営状況を確認するも、いつも楽観的で、時には、”M&Aなんかも考えている”といった景気の良い話ばかりであった。今考えると、社長自身、いわゆる外資ゴロ化しているので、根本的に性格が”いいかげん”だったのだろう。その後、問題を起こし、解任された後も、相変わらず、2、3年に1回のペースで、経営層を渡り歩いているのには、驚かされる。なぜ、雇ってくれる人がいるのか? そして、なぜ、2、3年しか続かないのか? 今だに、謎が多い。
 研修が終わり、関西に戻る。初めてのワンマンオフィス暮らしである。このオフィスを、大きくしていかなければならない。まずは、代理店づくりから開始ということで、前職で関係のできた会社に声をかけると、早速、数社が、その気になってくれた。商材はわかりやすく、出だしは順調であった。そんな所から、仕事を増やしていった。ワンマンオフィスは気楽だと思っていたが、仕事がある時は良いのだが、暇な時は、本当に気が滅入った。周りに話し相手がいない分、不安になるのである。よく、暇つぶしに事務所周辺をぶらつき、気分転換を図ったものである。一人ランチも、最初は、気ままで楽しかったのだが、一人で行きやすい店には限りがあり、最後は、常に、事務所にてテイクアウト弁当ということが多くなった。仕事の方は、商品がわかりやいこともあり、割合に短期間で、自分で開拓した代理店に加え、元々あった西日本エリアの代理店の仕事を加え、なんとか仕事をしている感じになってきた。自由に、新規開拓を仕掛け、苦しみながらも、新しい仕事を楽しんでいた時期であった。
 入社半年が経過した頃、社長が、突如、解任され、取締役が、社長に昇格した。同時に親会社が事業撤退するという話が、しきりにでてきた。その頃わかったが、この親会社は本業が長期停滞する中、新しいことに手を出しては失敗し撤退するということを繰り返していたようだ。事業計画は到底達成できるものではなく、親会社から経理担当の取締役が派遣され、経費の切り詰めが一挙に厳しくなった。私の仕事の方も、売上を上げる以上に、品質トラブル処理と売掛金の回収に追われる日々となった。元々あった西日本エリアの代理店の質が悪く、経理担当の取締役からの追求も、個人的なものにも及ぶようになってきた。おそらく、私を辞めさせたかったのだろうと推測する。転職し、1年も経たなかったが、例のスイッチが入った。会社の将来性はない。トラブル処理にはあきあきした。さらには、パワハラ。3重苦から脱出しようと。

4社目③ 40代後半

 久しぶりで、50近い年齢になってはいたが、転職については、当初、楽観視していた。マネジメントの実績を、買ってくれる会社があると思っていたからである。今度こそ、一から出直し、定年まで働ける会社を見つけたいという思いであった。さすがに、ホームページからダイレクトの応募は厳しいと思い、エージェント案件ねらいで、多くのエージェントに登録することとした。名だたる転職サイトにも、すべて、登録し、良い案件あれば、ダメ気味でも申し込みを続けた。数打てば当たる作戦である。
 複数の大手のエージェントともコンタクトがとれ、それなりに、案件紹介がくるようになった。何人かのエージェントとは、懇意となり、その後も関係が続くようになった。しかし、今一つ、その気にならない案件ばかりであった印象である。おそらく、自分のことを過大評価した結果、背伸びをした希望となっていたのだろう。また、この頃、景気が、そんなに良くなかったということも影響していたのかもしれない。ターゲットの業種、職種を拡げ、最後には、勤務先についても、関西にこだわらず、探すことにした。が、なかなか良い案件に出会うことは、なかった。たまたま見つけた良さそうな案件も、書類でアウト、面接も、今一つうまくいかなかった。年齢に加え、転職回数の多さ、さらには、辞める理由が納得させられるものでなかったのが、その理由だろう。転職回数が多くなってきた時、辞める(た)理由は、重要である。ここが相手に納得させられないと、話は、そこで止まってしまう。
 上層部からの圧力が強まり、精神的にも追い込まれ、次が決まる前に辞めようかと考えだしていた時、昔から懇意にしている個人エージェントから、案件の引き合いがきた。創立半年ほどの上場会社の子会社で、東京本社ではあるが、成長が確実で、これから西日本営業所を立ち上げるにあたり、そこのトップを求めるという案件であった。業種、商材的にも、それまでの経験が活かせそうだと感じ、早速、応募することにした。
 最初は、NO2の取締役との面談を、喫茶店で行った。私より、3歳ほど若かったが、会った瞬間、気にいってくれたようで、面接というより、情報共有に近い雑談であった。過去の経歴も、私と似たところがあり、ある意味、意気投合した感じである。その後、2週間ほどし、今度は、社長とホテルの喫茶店で、面談を行う。私とほぼ同じ年であるが、それまで、複数社を経営者として渡り歩いてきたということで、外見からしてバブルの匂いがする人であった。実際に、外資系を何社も渡り歩き(2、3年毎!)バブル時代は、車を複数台保有、近くの高級ホテルの駐車場に車を停めていたことがあるという人である。私とは、比較にならない程の退職金を手にしているようだった。当時も、駅近の高層マンションに住んでいた。このような人には、それまであったこともなく、面接の反応は今ひとつ、つかめなかったが、無事合格した。間一髪で、無職になることを避けられた感覚であり、ホッとしたものだ。年収は、2割程ダウンとなったが、中小にしては、そこそこのものを維持しており、なによりも、今後の成長が見えているということで、将来性に期待した。
 直属の事業部長に転職の意志を伝えると「それは辞めたくなるやろな」「このご時世、転職先よく見つけたな」と、正直な感想が述べられた。どこか、おどおどした様子で、目も合わせない。私に罵倒されることが怖かったものと、推察された。部下が一人辞める旨も併せて伝えたのだが、彼とは、その後、話す機会を持つこともなかったようである。これも同じ理由からだろう。最後の挨拶の時も、昔からこの会社にいる人間達は、私と話をしているのを他人に見られることを明らかに恐れ、おどおどした様子であった。

4社目② 40代後半

 1年以上経過し、予定をかなり遅れながらも製品上市。それまで取り扱いを決めてくれていた顧客に、納入。が、納期遅れ、品質クレーム多発で、営業は、後向きの仕事に追われることになる。そのうちに、決定的な品質の問題点が発見される。新しい市場に進出するには、開発時間が短すぎたのである。新しい市場に必要なノウハウや経験は、馬鹿にならない。大量の返品と在庫を抱え、会社側が早くも、事業撤退のプレッシャーをかけてくる。それ以降、対外的なものより、内なる敵に悩まされることになる。会社は、創立まもないベンチャーくずれで、まだ、創業者が権力を握っていた。創業者の一存ですべてが決まる体制であり、よくここまでは、創業者のあずかり知らぬところで、自由に動けていたものである。運だけで急激に大きくなった会社によくあるパターンで、権力者の周りには、イエスマンの取り巻きがいて、その者たちが、会社の新しい発展を阻害する。独裁体制にはつきものの権力構造が、この会社にも存在していた。取り巻きは、新しい勢力が成功することを好まず、かなりの足の引っ張りを露骨にしだした。会議でも事業の問題点や個人批判ばかりをし、自ら意見は存在しない。ある時、嫌みで、「問題点はわかりました。ではあなたならどんな対策を打ちますか?」と尋ねると、質問には応えず、またテープレコーダーのように個人批判を繰り返す。会議中3度ほど同じ事を繰り返すレベルの低さだ。密告や嘘の情報を恣意的に流す等下品な動きは、当たり前にある。10年後の今も、新しい人間はあいかわらず定着せず、創業者をトップに、取り巻きと無能な人間だけで固まっている。
 新規事業に挑んだ事業部長も辞めさせられ、何人かの人間が、自ら会社を去った。私と同年で個人的に仲の良かった部下も、もうこの会社には居れないと転職活動を始めた。ある日、会社のグループウェアを見ていると、出張先に、面接予定の会社が堂々と登録されていた。笑うと同時に、このように馬鹿にされる会社はダメだなと改めて感じた。ある時、創業者に呼び出され、いきなり、「お前は会社員としての基本に欠けている。今すぐ、ここから出て行け」と怒鳴りつけられるということもあった。誰かが私のことを影で非難したことに対応した動きであったが、会社員にとって権力者に脅されるほど怖いものはないことを知った。そんなこともあったが、創業者との関係は悪くなく、事業の撤退戦とは切り離され、新たな事業のネタ探しという新しいミッションを与えられ、動くようになっていた。転職は常に意識していたが、このミッションだけは、完遂したいという気持ちが強かった。
 そのうち、事業の形が見えだし、新たな新規事業部が作られることになり、私は、また、営業責任者としての役割を担うことになった。会社からは完全に心は離れ、傷ついてはいたが、最初から関わっていた仕事でもあり、成功したい思いであった。Iさんの”この会社は利用するためにある”という言葉を思い出した。利用できる間は、利用しようと。
 既知の部下達との人間関係はすでにできあがっており、協力し市場開拓を行い、ほんの数年の間だったが、数億規模の案件も何件か受注できた。その先の事業の絵も描けつつある。が、受注するたびに、納期遅れ、品質クレーム多発で、追い込まれることになる。それまで、私自身、技術者というものを尊敬していた。難しいと思われた高い目標を達成するのが技術者だと。だが、この会社の技術者達は違っていた。ちょどその頃、理由は不明であるが、取り巻きの私個人への足の引っ張りが露骨に始まりだした。新しい事業部長もその1人だった。荒唐無稽な数値目標や、降格圧力等個人攻撃、人が組織に居たくなくなる勘所をよく知っている動きだ。ある時、創業者、取り巻き、事業部長が集まる何度目かの緊急会議の中で、またまた事業部の将来が話し合われた。途中、事業部長が突然”皆に迷惑をおかけし申し訳ない”と泣き出し、話は、うやむやに終わるということがあった。完全に茶番であり、この会社では、過去に何回も見られた光景であっただろうと直感した。完全にあほらしくなり、例のスイッチが入ることになった。ここから逃げようと。

4社目① 40代後半

 会社の初出は、東京ではなく、関西本社であった。当日集まっていた新入社員は、私を含めて、3人で、すべて、年輩者であり、皆、大企業からの転職組だった。そのうち、Iさんは、東京勤務で、私の上司格にあたることになる人で、大企業退職以降も起業、転職を何回かしており、かなりユニークなキャラの人であった。東京へ帰る新幹線の中で、ここ7年程、仕事の実績がないので、この会社では、なんとか実績を上げたい旨を私が話すと、”塞翁ちゃん、大丈夫だよ。僕がいるから。”と自然に返して来たのには、驚いた。次の日、東京事務所に出社、午前中は、いつもどおり、システム設定等に明け暮れ、午後から手持無沙汰になったところで、Iさんが、”○○さんの所へ行かないか?”と誘ってきた。○○さんとは、当時、マスコミにも良くでていた有名政治家である。Iさんに連れられ、初めて訪問した自民党本部は、郵政解散でゴタゴタする中、多くの有名な政治家が、廊下で立ち話をする騒然とした雰囲気であった。目当ての政治家は、事務所にはおらず、秘書が対応してくれたが、Iさんとは旧知の仲のようで、それまでの私の経験にはなかった仕事ぶりがうかがえた。Iさんは、その後も、何をしているか不明だが、何か仕事?をしており、日本全国、時には海外も、飛び回り、湯水のように接待費を使っていた。が、特に目に見える成果が出るということもなかったので、結局、1年ほどで、会社から目をつけられ、会社を去ることになった。短い間のつきあいではあったが、影響を受けることが多く、特に、仕事に対しての前向きさ、チャレンジ精神については、団塊の世代より上の世代に通じるものを感じた。問題だったのは、会社という存在を軽視していること。一歩間違えれば、馬鹿にしているとも言える態度だろう。ある時、仕事について悩み、Iさんと話をしたところ、”塞翁ちゃん。ここは、仕事する所ではない。利用する所なんだよ。”と、いつになく真剣な顔でアドナイスをくれ、私自身、腹に落ちた。突き抜ければ、キャリア開発なんか関係ないものである。
 仕事のほうは、業界も商材も旧知のもので、楽であった。まずは、案件を引き継ぐ形で始まった。前任者から引き継ぎを受け、お客様訪問をし、関係者を紹介される。前任者も良い男で、前職の人間関係の悪さを考えれば、夢のような環境であった。当時、直属の上司がいたが、完全に引退前の暇つぶし仕事に徹しており、放任され、楽であった。そんな環境なので、Iさんも、1年は会社に居れたのだろう。
 半年程し、私と同日に入った人が事業部長となり、新しい事業部を立ち上げる。私は、そこの営業責任者ということになった。最初は部下5人程の小部隊である。既存顧客の拡大と事業部長と数人が細々とやろうとしていた新規事業の立ち上げが、私のミッションになる。商材、ターゲット市場は明確で、商品開発が着々と進んでいる状況だった。想定される市場としては、私も会社も未経験のものであり、先行し牙城をつくっている競合も複数あるという状況であったが、ここは従来の楽天的な性格から、前向きにとらえた。その後、多くの新規事業、新市場開拓を経験したが、全く白紙からの立ち上げは、これが初めての経験であったが、仕事に関する難易度を考えるより、期待に対する久しぶりの安ど感と遣り甲斐を感じたものだ。マーケティング、戦略仮設と実行、検証、戦略立て直し、および、組織作り、営業教育を同時並行で、行っていく。部下達との人間関係もうまくいき、自分なりに、うまく組織運営ができていたと考える。営業同行をする毎日で、顧客基盤を増やしながら、営業教育することに、仕事の面白さを感じる日々であった。

3社目② 40代前半

 仕事面では、嫌いな奴とつきあわなくて良い仕事だけを選ぶように心がけた。ビジネスパートナーと組んでやる仕事、事業部の新商品ソフトを売り歩く仕事。。。ビジネスパートナーや事業部の人たちとは、うまく人間関係もでき、懐かしい仕事もある。が、常に、転職を考える毎日であった。
 そんな時、東京のある部門から、社内異動しないかとの誘いがあった。苦しんでいた時期であったが、私を評価してくれていた人もいたようで、その人からの誘いであった。東京勤務というのがひっかかったが、そんなこと言ってられない。早速、話を詰め、上長に伝えた。直属の上長は、私自身に興味なかった様子で、直ぐに了解くれた(初対面で感じた何とも言えないノリの軽さはここから来ていた)が、その上の上長が猛反対、激怒した。その時、分かったことだが、激怒した上長は、私を採用してくれた人に、私を押し付けられたという感覚でいたようだ。小さなクーデターは失敗し、さらに、1年我慢することになり、うまくいかない転職活動の中、モンモンとする日が続くことになった。
 1年がたち、嫌な上長は転勤で変わるが基本的な状況は変わらず、仕事するフリをしながら過ごす日々が続いていた。年度末、転勤候補になっているということで、新しい上長より呼び出しを受ける。転勤先は2つ、ひとつは旧知のビジネスパートナーへの出向と、数年前にクーデターを起こし失敗した東京の部門である。関西にいたいという気持ちは変わらなかったが、東京本社がどんなものかを見てみたいという気持ちと、関西に帰るという事が絶好の転職理由になるのではとの打算から、東京の部門を選択した。
 東京の初出社は、ほとんど緊張しなかった。仕事内容も、西日本担当が、全国担当に変わっただけだ。相変わず、仕事をするフリをしながら、転職活動に明け暮れる毎日だった。ここでも、相変わらず、嫌な人間が増える。余程、この会社とは性に合わなかったのだろう。一方、上司も含め、同僚や新たな仕事仲間と、飲みに行く機会も
頻繁にあり、このままこの会社でもうまくやっていけるのではないかと考えたこともあった。しかし、一度、離れた心はどうしようもなく、裏で転職先を探し続けた。HPで情報を探し続けてる毎日にも嫌気がさしてくる毎日であった。
 一方、この職場で、コンサルタントと呼ばれる人達とつきあい、その手法を現場で学ぶことができ、自分でも勉強をしたことは、その後の仕事人生で、非常に役に立つことになった。また、ある時、1日プレゼンテーション研修を受けたのだが、研修最後の講評にて、名指しで、激賞される経験をした。それまでは、プレゼンに関しては、今一つ自信が持てずにいたのだが、これ以降、重要なプレゼンの度に、この時の事を思い出し、強い心でプレゼンに臨むことができるようになった。転職面接は、自分のやってきた事、できる事、やりたい事のプレゼンであり、これ以降、転職面接に憶することもなくなった。面接官の心に響くだろうプレゼンを堂々とすることだけに集中できるようになった。
 仕事での人間関係が最悪状況になり、追い込まれ感が強くなる中、HPにて、ある関西本社案件を見つけた。業界も、私の経験が活かせそうであり、営業の責任者でもある。まずは、旧知のエージェントを通じ、応募するも、返事が鈍い。本当に動いてくれているか怪しい気がしたので、直接、応募してみることにした。夕方、応募し、夜には、一次面接が決まった。面接は特に問題なく話が進み(関西本社勤務を願い出たが、これは却下された)結局、1週間程度で、この会社に転職することが決定した。3年ほど悩み続けた転職活動であるが、決まるときは、一瞬である。このように一瞬で人生を変えられる面白さが転職にはある。
 給料、仕事、役割、1週間に一度の関西本社勤務。すべてが、当時の自分にとっては、最高の職場に感じたものだ。上長への報告も、関西に帰りたいという理由が明確なため、すんなり進み、ありがたいことに、会社事由退職ということで、4年もいなかったにもかかわらず、10年以上いた前職よりも多くの退職金をいただくことになった。退職する日は、すべてが、清々しかった。

3社目① 40代前半

 10年以上勤めた会社を辞め、久々に、もう経験すると思わなかった転職をすることになった。出社初日の朝、緊張する中、直属の部長に引き合わされた。まず最初に、なんとも言えない”のり”の軽さを感じた。が、これは、つきあい安い人というふうに、前向きにとらえることとした。部長は、10分ほど、会話した後、時間がない様子で、出張に出かけ、その後、数日、帰ってこなかった。席だけは、決まっていたので、やることがない中、まずは、PCの設定、サーバ、イントラネットへのアクセス、を行い、とにかくは、社内の事を知る事に、時間を費やした。
 私を面接してくれた人は、私の上長ではなかった。結局、この人とは、1回も顔を合わせることはなく、一度、会社の前で、すれ違ったが、挨拶もできないままに終わった。転職では、採用してくれた人との関係が大事だ。入社後、採用してくれた人とうまく仕事ができた場合、成功確率が高い。今回の転職は、この点でも悪い状況だった。そもそも、40代にもなって、自分が、どんな立場で、どんな職場に入るのかを確認せずに、入社したのは、かなりの軽率さだったと感じる。
 職場では、招かざる客だった。何をしたら良いか、相談に乗ってくれる人もいず、全く、仕事がない。担当業界だけは決まっていた(当然、成果が上がりにくい業界だったが)ので、業界担当の営業に挨拶、まずは、”なんでも手伝いますよ。”というところから、関係を作っていくことにした。そのうちに、複数の営業マンとは、人間的に仲良くなり、仕事するフリはできるレベルになってきた。職場では、Sさんという年輩の人が声をかけてくれ、色々教えてくれた。当時、この人と雑談することが、唯一の気晴らしであった。
 入って、1か月ほどで、2週間ほどの営業研修があった。研修自体は、すばらしいもので、それまで、経験と勘でやっていた営業活動を理論的に体系的に理解できたことは、その後の仕事に非常に役立った。研修の初日、仲良くなった男と駅まで帰る道すがら、彼は、”僕は、もうこの会社を辞めようと思っている”ということをいきなり言ってきた。彼は、海外MBA出身で、この会社が3社目、6か月程経過した時点だったのだが、仕事内容が気に食わないのか、完全に、辞めることを決めている様子だった。鬱病をわずらっており、会社のクリニックで薬をもらっている。既に、何社かあたりをつけているということも、あっけらかんと話してくるのには驚いた。彼とは、その後、何度か飲みに行き、相談しあう間柄となった。結局、彼は、会社を辞め、金融系会社を何社か経た後、経営コンサルタントとなり、今は調子よくやっている。ように見えるが、おそらく、悩みながら、仕事をしていると推察する。
 私なりに苦労し、会社に溶けこもうと努力したが、結局できなかった。今までの人生の中で、嫌いな人間をあげると、ほとんどが、この時代に知り合った人間となる。それぐらい、この会社とあわなかった。。会社自体、変革期にあり、昔の古き良き時代の雰囲気がなくなり、外資の色合いが強くなってきていたこともその要因だろう。上層部には、昔ながらの人格者、仕事もできる方がいたが、次第に、力を失いつつある状況だった。直属の部長に、3か月ほどで、目をつけられ、毎週の会議などで、つるし上げにあう場面が多くなった。今まで、そのような事を経験したこともなく、転職間もない人間には、非常に追い込まれた精神状況となった。ちなみに、つるしあげに合う人間は、決まっているのだが、定期的に変わる。周りの人間は、ターゲットからはずれるとほっとするという具合であった。
 初めて感じる孤独感であった。それまでは、会社=自分の組織という感覚で、どこか会社に頼り、甘える自分がいたが、これ以降、この感覚は消えた。仕事の方も、嫌いな人間達に囲まれた、やらされ感のある案件が多くあり、常に追い込まれた精神状態であった。鬱病の人間が周りに多いことにも気付いた。職場で私によく話しかけてくれるSさんも、薬の処方を受けていた。隣席の男も、鬱病で、長期療養をせざるを得ない状況となっていた。
 そんな中、あの”スイッチ”が入る。今回は、こんな会社から逃げようという完全に負の理由からである。40代にして4回目の転職、しかも、管理職経験はない。。かなりの困難が予想された。前回成功時のように、HPチェック、今回は、転職エージェントへの登録も行った。が、やはり、反応がない。時々、面接に至る(案件も今ひとつその気にならない)も、1次面接も突破できない。今から思えば、2社目海外部門時代から3社目までの5年(最終的には7年)ほど、仕事の成果なく、自信を持って、自分の職歴を説明できず、さらには転職理由も曖昧、うまくいかないのは、当たり前だ。転職もうまくいかず、会社でも追い詰められ感がある。自分のキャリアを描くことができず、もがき苦しんだ時期だった。