あるジョブホッパーの軌跡

7転8起の人生

2社目④ 30代後半

 新しい職場では、周囲に英語が飛び交っており、当初、私は、英語での電話を受けるのが怖く、常に緊張していた。これは、結局、最後まで完全には解決できなかった。職場の上長、同僚は、皆良い人ばかりで、職場環境ということでは、今までで一番良かったかもしれない。今でも、飲みに行くのは、この時代の人たちが多い。特に、最初の上司となった部長とは、今でも、よくご一緒させていただいている。
 一方、仕事は、苦戦した。市場が海外ということで、今までの経験、スキル、ネットワークは、ほとんど活かせず、ルーチンワークもない仕事だったため、自分のできる仕事を見つける事から始める必要があった。なによりも、海外相手の仕事なので、お客様との距離が遠く、自分の立ち位置に苦労することになった。今から考えれば、このような人間を雇う会社の懐の大きさに感心する。一方、海外部門ということで、国内とは違った人々に出会うことができたのは大きな収穫であった。国内より自由に仕事をしている人が多い印象であった。特に、年輩の現地の日本人のバイタリティには驚かされた。団塊の世代を境に、国内海外とも日本人のバイタリティは落ちていく一方であると感じた。
 そんな状況でも何年かやっていると、次第に、販社や事業部、海外協業会社に、ネットワークができ、仕事をする「ふり」はできるようになった。海外出張なども繰り返し、ある意味楽しくはあったが、「ふり」の域は越えられなかった。仕事に関しては、満足できる成果をあげることができず、悩み深い日々であった。
 4年ほど経った時に、事業所トップ(副社長)が若手リーダーから意見を聞く機会を持ちたいということで、私の職場からは、私が出席することになった。最初のうちは、国内と海外の違いなど、調子良く、会話がはずんでいたのだが、組織的問題について、批判をした内容が、トップの逆鱗に触れることになり、”君は、この会社を辞めるべきだ”とまで言われた。会の最後にも、同じセリフを投げつけられた。(周囲は凍っていたが、私は、その重大性に気付かなかった)翌朝、その出来事はすでに上長に伝わっていたようで、当時の部長に呼び出され、真意を尋ねられた。ありのままに状況を報告したが、ただ黙って聞いてるだけの反応だった。後日、私を採用してくれた部長に、”○○部長は君を切り捨てたんだ”という事を教えられ、事の重大性に初めて気が付いた。
 その頃、バブル崩壊の影響もあり、会社の屋台骨が揺らぎ、最初のリストラが始まるうわさがあった。そんな雰囲気の中、なんとなく見たHPに、良い転職案件を見つけた。転職難易度が高い外資系であり、本当に自分が転職できるとは思わなかったが、腕試しの気もあり、面接を受けることにした。書類選考は合格し、面接に臨んだ。面接官は(後で分かったことだが)その事業所の実力者で、切れ者の雰囲気を醸し出している人だった。その面接官に気にいられたようで、結果は、合格だった。二次面接はなかったと記憶している。
 大好きだった会社を退職することになるわけで、かなり迷った。結婚もし、子供も生まれて間もない頃でもあった。が、決め手は、”このままこの会社にいても、うだつのあがらない人間になる”という思いからであった。結局、10年以上お世話になった会社、一人前に育ててくれた恩のある会社を辞めることにした。自分でも信じられない気分であった。現実ではなく夢の中にいるような感覚だった。
 転職する時に、悩み、苦しむ事は、これ以降、ない。また、会社や上司なる人を敬うという純粋な気持ちも完全になくなった。大学卒業時にこの会社に入ってたら人生かわってたかな~
 かなりの割増退職金をもらった。次の外資系でも割増退職金をもらったため、金銭的に自由の身になり、その後の転職のハードルが下がった。会社にしがみついている人が会社を辞めない大きな理由のひとつは、退職金の目減りの問題である。

2社目③ 30代半ば

 7年が過ぎた。多くの思い出深い仕事を経験し、失敗もしたが、多くの実績を上げることもできた。人生で一番の天狗の時期だった。その頃、管理職一歩手前の資格への昇格試験を受ける候補となった。私としては、昇格して当然という気でいた。が、そこに、異変が起こる。
 事業部トップが定年退職で交代する中、新しい事業部トップは、かなり自分流を打ち出すワンマンな人であった。今までの事業部のやり方を変えようと、上層部の大胆な異動と評価基準の変更を行った。一転、昇格試験に苦戦することになる。結果は、昇格見送り。所属部長からは、”年齢構成もあるので、1年待ってくれ。1年後は私が保証する”との言質を得た。が、その1年後、私は、候補にもならなかった。所属部長も、異動となり、新しい部長と私は、全くそりがあわなかった。転職しようとは思わなかったが、この職場にはいたくないと、強く思った。
 その頃、社内異動の公募が積極的に行われており、公募要項を見ると、当時の私の経験とスキルを活かせそうな案件がある。問題は、海外部門ということで、英語が必須となる。当時、TOEIC400点そこそこの実力しかなく、かなりの懸念材料であったが、天狗であった私は、なんとかなるだろうと、ここも楽観的に考え、応募をすることにした。当時、応募は、事前に、上長に知られることとなっており、新しい部長には、かなり脅された。が、怯まず、面接を受けることとした。
 休日に面接が開催された。7名ほどライバルがいたようだ。面接自体は、問題なく進む。特に、後に、上長になる部長に気に入られたようで、かなり良い感触であった。懸念点の英語についても、入ればなんとかなるとの話だった。結果は、合格だった。実質的に、2度目の社内転職である。
 まさか去ることになるとは夢にも思わなかった職場を後にするのは、かなり寂しかったが、次は、海外という新しい世界が待っていることもあり、楽しみでもあった。今ならわかるが、私は、この時点で、この会社での負け組が決定したと思う。ある程度大きい組織では、昇格や仕事ができるということ以上に、組織に馴染むということが重要である。30代半ばになって、新しい組織に入るのは、非常に危険な賭けであった。また、昇格ということを考えた場合にも、さらに、少なくとも2年は、遅れることになる。このような思慮の浅いところ、あるいは、根拠のない自信が、転職回数を増やす原因となったと思われる。

2社目② 20代後半

 その後は、人事の言葉を信じて、我慢の毎日だった。1日1日が、ただ無難に過ぎるのをただ待つだけの毎日だった。3月の初めだったか、直属の上司に呼ばれ異動の話がある旨を伝えられた。まだ決まっていないような口ぶりで、どうするか選択しろとのニュアンスだった。内心ほくそ笑んだが、表面には出さず、神妙なふりで受け止めた。同時に、頭ごなしに人事に話をつけたことを厳しく批判された。そんなやり方は、この会社では通用しないと。部長からも同じ形の批判を受ける事になったが、全く動じることはなかった。むしろ、新しい職場への期待で胸が膨らんだ。もしかしたら、この時の異動が、今までで一番うれしかった異動かもしれない。この後も、会社主導の大きな人事異動の経験はないが。
 4/1、営業本部に異動した。同日、別支店から異動してきたMさんとともに、SE営業が集まる部門に配属された。相変わらず、最初の挨拶は緊張でたどたどしかった。
初めての営業部門は、新鮮だった。数字が全面にでてくることもあってか、会社と仕事の繋がりが見えて面白い。皆、”報連相”がしっかりしている。それまでは、なんといいかげんな仕事の進め方だっただろう。マイナス面としては、職場の雰囲気が、なんとなく柄が悪い。女性の前で、平気で下ネタをしゃべる人は、それまで見た事なかった。(数年後、自分が溶け込んでいることに気付いたが。。)
 仕事の方は、手探り状況ではあったが、Mさん(なぜか、他の若手には嫌われていた)と直属上司が手取り足取り教えてくれる。それまで、名刺も持ったことなかったので、Mさんには、既に、20代の後半だったにもかかわらず、お客様との名刺交換の方法から教えてもらった。常に客先同行し、勉強の毎日だった。直属上司にもお世話になった。客先に同行し、基本的な仕事の進め方を教えてもらうとともに、同じ転職組ということもあってか1人立ちできるように、色々便宜を図っていただいた。”塞翁くん、仕事はゲームと同じだよ。死ぬことのないゲームだから、楽しめばいいんだよ”バブル時代の余裕からか、そんな仕事観を常に、話してくれた。私にとっては、初めての上司らしい上司だった。
 とにかく、色んな業界の色んな客先を訪問することが楽しい。基本的に、訪問するのは新規のお客様なので、失敗のしようがない。
ある時、ある公共企業に、何かシステム提案しようという話が持ち上がり、公共企業の現場を3か所ほど見学後、私が、あるシステムを提案書にまとめることになった。見よう見まねで提案書をまとめ、先方係長に対してプレゼンした。”これ誰がまとめたの?すごくセンスあるね!”初めて、お客様に褒められた言葉は今でも忘れられず、自分でもなんとかやっていけるのではと、大いに自信になったものだ。先方課長クラスには、興味も持ってもらえず、話は直ぐに頓挫したが。。仕事の厳しさは知らず、ただ、上司、先輩に守られながら、仕事を楽しんでいる何の責任感もない遅れて来た新入社員のような生活だった。酒の楽しさもこの時期、覚えた。

 初めての転職は、成功に感じられた。少なくともこの時代の仕事経験が後の転職人生に”役立った”ことは事実だ。やはり、成功体験を持つ者の強みは感じる。そんな感じで、7年が過ぎた。結果的に、一番長くいた職場となった。

2社目① 20代後半

 転職初日は緊張した。この時は、仕事の実績もなく、自信もないため、不安感で一杯だった。上司との対面、同僚になる人たちへの紹介。一連の行事が流れるが、終始、緊張感で満たされていた記憶がある。仕事は、特に決まったものがあるわけではなく、しばらくは、新しいプログラム言語の習得や上司との客先同行という感じだった。その日、上司の計らいで、近くの居酒屋で有志だけの小さい飲み会が設定された。ほぼ同年代の人間が集まったが、皆、既に仕事に馴染み、各々自信を持っており、気おくれを感じたものだ。唯一、同じ日に転職してきた40歳になるMさんとの昼飯だけが、癒しの時間であった。当時は、40歳にもなって、子供2人もいて、転 職するってなぜなんだろう?と、疑問に思ったものだ。1週間もしないうちに、Mさんが、
この会社はダメだ。ということを言い出した。前職では、20人もの部下を持ち、大型のシステムを開発するバリバリの管理職だったらしいが、この会社では、開発ではなく、SE営業としての動きが強く求められており、不満だったようだ。また、隣席に、私より3カ月程前に転職してきた5歳年長のKさんがいた。この人は、”地元に帰るために、ここに転職してきた。半年ほど修行した後、営業本部でSE営業として配属されることが決まっている”ということを言っていた。”そもそも、塞翁君、今さら、何年も開発を担当してきた人 間に、勝てない。SE営業なら可能性ある”とも、アドバイスされた。居酒屋の風景が思い浮かんだものだ。
 そうこうしてるうち、火を噴きだしたプロジェクトがあり、私が、プログラマーとして投入される事になった。プロジェクトリーダーは、私より2歳程年下のおとなしそうな男だった。この男と、全く合わなかった。。。普段はおとなしいのだが、時にすぐに切れる人間だった。私なら(一見従順に見える)なんとかうまくやるだろうと上が投入したようだが、ダメだった。こちらから見ると、仕事の段取りが悪すぎる。システム設計もロクにできておらず、その煽りを受けるのは真っ平ごめんという気持ちだった。いつも早めにプログラムを作って、後は、時間つぶしをしている感 じの仕事生活となった。そのうち、何が理由か忘れたが、このリーダーと完全に対立、言い合いになった。仕事上で、この
ような人間関係に陥るのは初めてだった(その後もない)。前職が、奇跡的に恵まれた環境にあった事を思い知り、愕然となった。MさんやKさん、その他、仲良くなった中途採用の仲間達に、愚痴をこぼす毎日だった。仕事もプログラム開発ばかりで面白くない、このままここに居続けられるのか。。転職後直ぐであったが、大きな不安に襲われる毎日だった。。Kさんが、しきりにSE営業としての営業本部への配属を勧めてくれていたが、どうすれば良いかわからないまま、時間が過ぎた。
 そうこうしてるうちに、事業部人事課長に、入社後3カ月面談というものを受けた。 躊躇なく、現状の状況をうったえ、今のままでは、再転職の可能性が高い旨を訴えた。”私はプログラマーとしてここに入ったのではない”と暗に、営業本部への異動を示唆しながら。すると、人事課長は、かなり焦った様子で、私の真意を確認してきた。再度、念押しのダメ出しをした。こちらも、もう後がない気持ちだったので、前職時のように大人しくはしていられなかった。その回答を確認し、人事課長が、すぐさま、隣の部屋で上長と話しをし戻ってきた時に言ったのが、”何月とは言えないが、遅くとも、4月(その時、11月下旬)には、異動させる。”この言葉を聞いた時の嬉しさは、今だに忘れない。そしてこの出来事は、その後の転職人生に大きな影響を与えるものとなった。

1社目⑤

 予想通り、合格した。初めての転職活動成功であった。退社報告は、かなり緊張し、なぜか声がかすれた。上司は、引き留めることもなく、逆に、私の能力のなさをあげつらった。今なら、これは、ポジションパワーを持つ上司の責任に帰するものであると、言い返すこともできるが、当時は、ただ黙ってうなずくことしかできず、長い間、トラウマになった。例えば、コミュニケーション不足について。これこそ、”双方”の問題であり、上司にも大きな 責任がある。自分が上司になった時には、この言葉は絶対に言わずにおこうと強く思った。
 仲の良い同期達に退職の報告。ちょど同時期に辞める男が1人おり、彼とは、色々話し合った。30年以上経つ現在の同期達の状況を見ると、最初の3年で、ほぼその後の会社生活が決まっている。評判の良い奴から、出世している感じである。皆、一様に、口がうまく、プレゼン力があった。私は、この点でも、ここでの会社生活は終わっていたようだ。
 なんと次の担当が見つ かるまで3カ月も残留。針のむしろの中、耐えた。今なら、2週間で強引に辞めるが。。仕事関係の人達は皆、良い人ばかりで、一様に、私の退職を残念がってもらい、別れは、本当に、寂しかった。強面だった他部門の女性社員(私にはやさしかった)が、”姪と見合いしないか?”と、見合い話を申し入れてくれたが、そんな余裕がある状況でもなく、断った。退職した日、夜中に目が覚め、布団の中で、泣いた。

1社名④

 買ったことのなかった技術者向けの転職雑誌を買い込み、すぐに見つけたのが、その後、仕事人生を変えてくれた次社の案件であった。会社は前職より10倍ほど大企業だ。職種はSE業務であったが、SE営業としての仕事の可能性もあるようだ。自分の能力が通用するかどうか大いに不安であったが、なんとかなるだろうと、高を括った。
 1次面接は、事業部人事課長であり、話は、トントン拍子に進む。今から思えば、とにかく人が足りない状況であったようだ。2次面接は、先方5名と私1名の面接。特に難しい話はなく、最後に、”なぜ○○さんは、学生時代に、弊社受けなかったの?”と聞かれた時だけは、かなり戸惑い、苦笑いするしかなかった。これでも、悪印象は持たれなかったようだ。同日にあった3次試験は、本社人事部長。入社が前提での話しぶりで、この時点で、合格を確信した。
 帰り路、面接と合格の予感で、興奮した気持ちを静めるため、電車で帰らず、長い道を、ただただ歩いた。

1社目③

 初めての転職活動は、難航した。当時、バブル期で、日曜日の新聞就職欄は、いつも募集記事満載だった。良さそうな会社をピックアップし、応募するも、書類すら通らない。途中入社なので、”何ができるか?””何をしたいのか?”がポイントになるのだが、私が主張したのは、”経理”という抽象的で、恥ずかしいものだった。たまに、面接にたどりついても、つっこまれると、直ぐにボロがでる。そもそも、”経理”とは何か、わかっていないのだから。この当時、滑ってがっかりした会社の多くが、その後のバブル崩壊に巻き込まれ、消失した。
 ある日、ふと、思いついた。経理ではなく、”SE”で勝負したらどうだろうか? 当時、先輩が転勤した後、ひとりで、先輩の作ったシステムの運用をしていた。得意とはいえないが、普通の人よりは、コンピュータに詳しい。開発業務そのものは 、あまり好きではなかったが、そんなこと言ってられない。これから、この分野は益々重要になる。SE営業という手もある。ちょうどその頃、システムユーザの女性から”塞翁さんは、営業に向いている。元々の性格は営業的ではないかもしれないが、仕事に自分の性格を合わせることができる人間に見える”と。たしかに、システム運用時、ユーザとの間のやりとりは、今でいうコンサルタント営業手法そのものであり、この面では、若干の自信があった。この方向で転職活動してみよう。そんな軽いのりでの職種転換だった。