あるジョブホッパーの軌跡

7転8起の人生

3社目② 40代前半

 仕事面では、嫌いな奴とつきあわなくて良い仕事だけを選ぶように心がけた。ビジネスパートナーと組んでやる仕事、事業部の新商品ソフトを売り歩く仕事。。。ビジネスパートナーや事業部の人たちとは、うまく人間関係もでき、懐かしい仕事もある。が、常に、転職を考える毎日であった。
 そんな時、東京のある部門から、社内異動しないかとの誘いがあった。苦しんでいた時期であったが、私を評価してくれていた人もいたようで、その人からの誘いであった。東京勤務というのがひっかかったが、そんなこと言ってられない。早速、話を詰め、上長に伝えた。直属の上長は、私自身に興味なかった様子で、直ぐに了解くれた(初対面で感じた何とも言えないノリの軽さはここから来ていた)が、その上の上長が猛反対、激怒した。その時、分かったことだが、激怒した上長は、私を採用してくれた人に、私を押し付けられたという感覚でいたようだ。小さなクーデターは失敗し、さらに、1年我慢することになり、うまくいかない転職活動の中、モンモンとする日が続くことになった。
 1年がたち、嫌な上長は転勤で変わるが基本的な状況は変わらず、仕事するフリをしながら過ごす日々が続いていた。年度末、転勤候補になっているということで、新しい上長より呼び出しを受ける。転勤先は2つ、ひとつは旧知のビジネスパートナーへの出向と、数年前にクーデターを起こし失敗した東京の部門である。関西にいたいという気持ちは変わらなかったが、東京本社がどんなものかを見てみたいという気持ちと、関西に帰るという事が絶好の転職理由になるのではとの打算から、東京の部門を選択した。
 東京の初出社は、ほとんど緊張しなかった。仕事内容も、西日本担当が、全国担当に変わっただけだ。相変わず、仕事をするフリをしながら、転職活動に明け暮れる毎日だった。ここでも、相変わらず、嫌な人間が増える。余程、この会社とは性に合わなかったのだろう。一方、上司も含め、同僚や新たな仕事仲間と、飲みに行く機会も
頻繁にあり、このままこの会社でもうまくやっていけるのではないかと考えたこともあった。しかし、一度、離れた心はどうしようもなく、裏で転職先を探し続けた。HPで情報を探し続けてる毎日にも嫌気がさしてくる毎日であった。
 一方、この職場で、コンサルタントと呼ばれる人達とつきあい、その手法を現場で学ぶことができ、自分でも勉強をしたことは、その後の仕事人生で、非常に役に立つことになった。また、ある時、1日プレゼンテーション研修を受けたのだが、研修最後の講評にて、名指しで、激賞される経験をした。それまでは、プレゼンに関しては、今一つ自信が持てずにいたのだが、これ以降、重要なプレゼンの度に、この時の事を思い出し、強い心でプレゼンに臨むことができるようになった。転職面接は、自分のやってきた事、できる事、やりたい事のプレゼンであり、これ以降、転職面接に憶することもなくなった。面接官の心に響くだろうプレゼンを堂々とすることだけに集中できるようになった。
 仕事での人間関係が最悪状況になり、追い込まれ感が強くなる中、HPにて、ある関西本社案件を見つけた。業界も、私の経験が活かせそうであり、営業の責任者でもある。まずは、旧知のエージェントを通じ、応募するも、返事が鈍い。本当に動いてくれているか怪しい気がしたので、直接、応募してみることにした。夕方、応募し、夜には、一次面接が決まった。面接は特に問題なく話が進み(関西本社勤務を願い出たが、これは却下された)結局、1週間程度で、この会社に転職することが決定した。3年ほど悩み続けた転職活動であるが、決まるときは、一瞬である。このように一瞬で人生を変えられる面白さが転職にはある。
 給料、仕事、役割、1週間に一度の関西本社勤務。すべてが、当時の自分にとっては、最高の職場に感じたものだ。上長への報告も、関西に帰りたいという理由が明確なため、すんなり進み、ありがたいことに、会社事由退職ということで、4年もいなかったにもかかわらず、10年以上いた前職よりも多くの退職金をいただくことになった。退職する日は、すべてが、清々しかった。