あるジョブホッパーの軌跡

7転8起の人生

8社目 50代後半

 失業期間3か月を経て入社した会社の懸念点は、実はこの会社もブラック企業ではないかという疑心暗鬼であった。入社後、周囲複数人にヒアリングするも、その兆候はなかった。むしろ、それは、まったりとしたホワイト企業そのものであった。遅刻や早退も自由、年休も取り放題、社長には、皆、好き勝手に、文句を言っている。給料も、規模の割に良く、むしろ、業界の好決算に支えられ、年に数度、特別賞与がでている状況だ。
 一方、生産現場の残業と休日出勤は状態化しており、これが、この会社の一番の問題点のようだ。休日に電話応対にすぐに出たのは、休日出勤を常態化しているの人のようだった。ブラック企業の定義は色々あるが、一言で言えば、”辞める人が多い”ということにつきる。そういった意味では、生産現場の人の出入りは激しく、一般的にはこの会社は、ブラック企業なのだろう。しかし、私の周囲の職場環境は、ホワイト企業そのものだった。
 年功序列が守られており、部門では、私が一番年上となっており、変なストレスもない。営業の日々の業務サポートやクレーム対応は、部下である管理職がやってくれる。私のルーチンワークとしては、ハンコ押しぐらいである。出張もないため、暇を持て余すことが、唯一のストレスである。これについては、しばらくして、各種の情報システム導入や業務コンサルタント(旧知のコンサル)のサポートなどの仕事をつくり、営業の仕事とは言えないが、適当な暇潰し道具となっている。本来一番やりたい新規開拓だが、自由にはできるのだが、新しい商材、新しい顧客ということになると、一筋縄ではいかず、昔の人脈を使い、細々とマイペースでやっている状況だ。一方、会社全体の業績は絶好調で、新規開拓営業がメインだった時の様に、営業報告とセットに言い訳を用意する必要もない。”数字は、7難隠す”というわけで、数字報告で、報告は、終わりになる。仕事後、車で30分で帰宅。風呂入って、酒を飲んで良い気分になった時点で時計を見たら、まだ19時台。そんな毎日だ。
 仕事でのストレスが減ると同時に、今度は、私生活のストレスの重要度が増す。親の介護や娘の進路、友人の不幸、、人間とは、悩みのつきないものだ。もし転職しない人生ならどうなっていただろうとの”煩悩”には、未だに付きまとわれている。そのうち、気は変わるかもしれないが、会社に対して、何か貢献できたと思われた時点、2年以内ぐらいで、辞めようと思い始めている。
 仕事を辞めて、何をするか? また、大学にでも戻ろうかと、そんなことを考えだしている日々だ。

失業② 50代後半

 午前中は、ネットによる仕事探し、午後からは、2日に1度は、テニスで運動不足解消という生活を続ける中、1か月ほどして、ひとつ面白そうな案件を見つけた。車で30分ほどの場所にあるメーカーの営業責任者の案件だ。業界は全く未知のものであったが、迷うことなく応募した。仲介エージェントは、またも銀行系エージェントであった。が、10日間経っても、回答がない。しびれを切らし、ブラック企業を紹介した懇意のエージェントに”あなたが担当になってくれ”との趣旨のメールを打ったところ、即座に、そのエージェントから、担当エージェントにつなぐので、明日にでも、来社して欲しいとの電話があった。さすがに、ブラック企業を紹介したことには、申し訳なく思っている様子であった。
 翌日、エージェントを訪問した。この頃になると、スーツを着て、電車に乗ること自体に、かなり面倒くささを感じたものだ。担当エージェントは女性であり、この人も、なかなか親身に相談に乗っていただき、手厚いサポート
が受けられる様子であった。今回の案件は、年齢的には、先方が望んでいる範囲にはいるようで問題はなかったが、一番の懸念材料である転職回数の多さに対しては、十分なすり合わせ、対策を行った。失職中であることに関しては、女性エージェントから説明を加えることで、準備を行った。しばらくして、無事、面接の案内があった。
 この段階で、この会社も、またブラック企業ではないかとの恐怖にとらわれるようになった。休日の事務所への電話、近いこともあり、何度か足を運び、職場の様子を知ろうとも、努めた。休日に、即座に電話対応が出たのには驚き、疑心暗鬼にとらわれることになった。工場の朝礼の様子も外部から確認し、内容は5S系の話で、怒号はなさそうなことに、ホッとしたものだ。ネット情報はほとんどなく、人の良さそうな社長の顔写真は確認できたが、会ってみなければわからない。人当たりは良く見えても、いつ豹変するかわからない。そんな疑心暗鬼にとらわれる中、面接に臨む。エージェントには、この疑心暗鬼は伝えており、どこかのタイミングで、この件について、エージェントから質問を投げかけてもらうようにした。
 面接に現れた社長は温厚そうな人だった。転職回数については、全く触れられず、むしろ、”経験が豊富である”と前向きに評価されている様子であった。質問も、ほとんどなく、話を、ほぼ一方的に聞くだけで、(当然、途中、自己アピールのために前向きな意見は述べてみたが。)好印象を与えたことが、確認できる中、面接は終わった。女性エージェントにも、最後の方で、うまくこちらの懸念点を伝えていただいた。その回答には真摯なものを感じた。面接の最後で、”次回は、塞翁さんの方からの質問に回答する場にしたい”ということで、次回の面接も、その場で、決まった。
 1週間ほど後の面接にも、緊張しながら、女性エージェント同席のもと、臨む。が、準備していた質問を求められることもなく、面談早々に、採用決定の旨が伝えられる。年収提示があったが、想定をかなり上回るものであった。その後、入社日のすりあわせと、部下になる管理職の紹介、本社工場の見学が実施された。帰宅し、無事に採用が決まった旨を妻にも報告した。失業期間3か月での再就職決定であった。妻は、その時まで口に出さなかったが、このまま仕事は決まらないのではと、暗澹たる気持ちになっていたとのことだった。
  3か月の無職期間を通じ、あらためて、無職という状況の精神的負担の大きさを感じた。私は、まだ、高年齢で、
経済的不安も少なかったので、まだ良かった。あるエージェントの「無職になると、まず精神的に参ってしまう人が多いので仕事についたままで転職すべき」とのアドバイスにもうなづける。それと、転職の恐ろしさだ。結局は、運が左右する。能力も重要かもしれないが、それ以上に出会いの運が大事だ。運に恵まれないと思った時に、どうリカバリーするか、考え方を切り替え、運に甘んじるか。。おそらく、今後は、後者を選択していく人生になりそうだと感じた。8回も転職したら、リカバリーも何もない。どこの会社の出身かという概念もない。結局は、すべて含めての私の人生だったのだとの思いである。

失業① 50代後半

 失業生活初日は、妻と前から約束していたテレビ局の公開録画会場を訪問した。テレビでよくみるタレント達を見ながら、失業者が昼間からこんなことをしていて良いのかと、心配になったものだ。
 失業が決まると同時に、前から懇意としていた会社の社長と相談し、場合によっては、個人事業主として営業契約することにした。しかし、これは、あくまでも最終手段で、基本的には、どこかの会社に入ることを目標とした。
 ブラック企業在職中に、面談が決まっていた2社と面談する。どちらも、面接は問題なく切り抜けたのだが、”塞翁さんは、飽きしょうか?”と、ずばり、質問され、対策通りの回答を返すも、結局は、納得させることはできなかった。最初から、偏見を持たれた面談には、非常に厳しいものを感じざるを得なかった。
 しばらくして、ハローワークを訪問し、失業手当の申し込みをする。3か月以内に次を決めれば、失業手当を満額もらえる制度があるということで、これは、転職活動の励みとなった。
 何もない時にでも、午前中は、ネットによる仕事探し、1日1件以上の応募を目標とする。午後からは、2日に1度は、テニスで運動不足解消をするという生活を続けることになる。この生活は、精神衛生上も良く、このままづっと続けても良いような気になったものだ。
 そのような生活が続く中、テニスの休憩中に、ブラック企業を紹介した銀行系エージェントのひとりから案件紹介の連絡が入る。ネット上では、チェック済で、今一つその気にならなかったものだが、せっかく紹介いただいたのだからということで、案件を前に進めることにした。エージェントは、クセのある人ではあったが、かなり、親切に、先方の情報をくれ、面接アドバイスも念入りなものであった。社長+重役の面接が、2回あった。2代目社長で、頭でっかちの印象はあったが、悪い感じはしなかった。こちらも、ブラック企業に、かなり過敏になっており、色々な角度から質問を行い、不安を払拭していく努力をした。車通勤はできるが、1時間かかる、が、営業の責任者であり、扱う商材も全く知らないものではない。ホームページは、ブラックによくある雰囲気を醸し出してはいたが、面接時の雰囲気ではなんとかなりそうな気もした。もし合格がでたら、入社しても良いかなと思った頃、社長と1対1の会食がセットされた。これが、最終の面接になると思われた。エージェントと再度の打ち合わせの後、会食に臨む。
 緊張を隠しながら会食に臨んだ時に感じた社長の印象は、昼間の印象とは違い、かなりしょぼくれたイメージのものであった。最初から、話題は、会社の愚痴だった。そのうちに、酒量の話になり、私もかなりのものだが、先方は、それをさらに超えるものであった。先代が亡くなり、社長になってからの習慣であるようで、あげくのはてに、”この前、日中に、白日夢を見ましてね。。”というようなことまで、語りだす。何か”落ち”があるのかと思ったが、ない。完全に、酒に飲まれている男のそれだった。会食は、2次会まで、同じような状況で続く。最後に、”こんな会社で良かったら、入社してくれ”と言われたが、私の方は、完全に、酔いが醒めた状態だった。酒に酔ったフリをし、怒号の有無を聞いてみると、”もしかしたら、私の会社も同じかも。。”とのことだった。エージェントは、もう1回会って入社有無を判断しろとの意見であった。懇意の年輩のエージェントは、”辞めたほうが良い。二次会までいくのは、面談ではなく、自分が行きたいから行ったのだ。”との意見だった。この案件を逃すと、もう次はないかもしれない、ある程度で妥協は仕方ないとも思ったが、今度、ブラック企業にはいったら、それこそ、終わりであるという恐怖から、結局、本案件は辞退することとした。
 しかし、転職は怖いものだ。もし、社長との会食がセッティングされていなかったら、かなりの確率で、私は、2回連続で、ブラック企業にお世話になったことになる。

7社目② 50代中半

 当初は、次社が決まる前の退職は、ありえないと思っていたが、それ以上に、日々追い込まれた気分になり、そのうちに、睡眠も不十分になり、このまま長くいても意味がない、直ぐに辞めたいと、あっけなく、例のスイッチがはいった。たまたま案件の多い大手の懇意のエージェントから帰宅時に電話があり、明日にでも辞意を伝えようと思っている旨、伝えると、”できるだけ長くいて、給料もらいながら転職活動を続けるべきだ”との意見であり、次の日の退職報告は、とりあえずは、思いとどまった。今度の転職は、給料、業種等思いっきり範囲を拡げるしかないと決意、早速、サイトに再登録をした。懇意のエージェントにも、すべて、連絡し、支援を要請。あるエージェントには、この程度のことを辛抱できないのなら、どんな会社行っても同じだと、痛烈に非難された。状況わからず非難する前に、会社紹介しろよと強く思うと同時に、暗澹たる気持ちになった。昔から懇意の年輩のエージェントにも、”こんな事例はよくある。よく確認しなかったあんたが悪い”と言われたが、親身に相談にのっていただき、以後、心の支えになった。ブラック会社生活の中での転職活動は、精神安定に一定の効果があり、それだけを頼りに、会社に出社し続けた。
 この会社には就業時間等、目に見える表面的な問題以外に、多くの問題が存在した。営業活動は、基本、車で行うのだが、皆、車の運転が荒っぽい。当時、3名ほどが、スピード違反等で、免停になっていた。私が在職していた間だけで、4、5件の車の事故があった。軽い接触や人身一歩手前などには、何度も遭遇した。直ぐに、その理由がわかった。私自身、運転する機会があったのだが、睡眠不足と情緒不安で、運転が荒っぽくなっていくのだ。
実際、多くの営業マンは、客先周りの途中、車の中で、寝ることを日課にしていた。時には、1時間以上も。
数年前、入社したばかりの若い男が、150キロのスピードで、高速道路で大事故を起こしたことがあった。その彼は身体に障害を負ったとのことだった。また、ベテランの営業マンの中には、事故で、相手に障害を負わものもいた。このような話を聞き、荒っぽい運転席の横に座るのは、恐怖以外なにものでもなかった。生まれて初めて、生命の危険を感じながら、仕事をすることになった。
 業界特有の客先工場でのアレルギー症状にも悩まされた。花粉症も発症してないのに、目や鼻がむず痒くなる。
そういえば、周囲も、変な咳をしている人間が多くいた。
 営業マンは1人では行動できず、2人以上での行動が義務付けられていた。1人では、何してるかわからないということで、監視目的でのルールであった。
 部下2人とよく同行営業をしたのだが、2人も時間をおかず、会社への恐怖を話すようになる。経理の女性は、一旦は、辞意を表明したらしいが、結局は、ずるずる残っているとのことだった。管理部門も、当たり前のように、タイムカードを切った後に、夜遅くまで仕事をすることが、常態化していた。会社の人たちは、皆、最初の印象どおりに、一様に、感じが良かった。が、表情がない。このような環境に文句も言わずいる姿に、薄気味悪さを感じたものだった。
 月曜日の朝一の営業会議は苦痛以外ないものでもなかった。始発に近い電車で出勤、意味のない会議の途中で、社長が乱入し、怒号を朝から聞く。
 朝の罵倒を聞いた後、直ぐに、客先周りに出発、夕会が終わったころを見計らって、帰社というパターンを続けた。睡眠不足と情緒不安はどうしようもなく、試用期間での退職を決意、社長に辞意を伝える。かなりの恐怖を感じる辞意であったが、その後、精神的なつらさは、かなり緩和された。後は、失職期間を短くするために、一刻も早く、転職先を見つけることだった。試用期間中の退職ということで、会社から私を紹介した銀行系エージェントへ、不良品を押し付けられたと猛烈な抗議があったようで、金銭問題も発生したとのことである。”この会社に二度と人を紹介してはいけない”との私の強い意見も効果があったのか、エージェントは、その後、取引を停止したとのことだった。
 転職活動は、業界、給料等、範囲を拡げた事もあり、意外と案件が多くあった。面接まで至る案件も出だした。その頃、精神状況のせいか、年齢のせいか、通勤がかなり億劫になっており、ビジネスマン生活の最後は、車通勤をすることを強く希望するようになった。自宅から近距離にある会社には、かたっぱしから、応募した。
 そんな中、自宅から車で20分の距離にある会社がみつかり、応募、面接にたどりつく。うまくいけば、試用期間内での転職が成功すると考え、意欲十分で臨んだ当日は、病欠を理由にし、ヒヤヒヤものだった。ちなみに、営業は、年休が十分にある人でも、病欠であっても、休むと欠勤になるしくみであった。。。
 面接は、社長と1対1のものであった。つつがなく終わりホッとしたものだが、先方からの質問がほとんどなかったのは気になった。時間を延ばすために、こちらからの質問を受け付けているイメージだった。2週間ほど待たされた後、結果はNG。完全に失職が確定したかなりショックな結果であった。
  そうこうしているうちに、地獄のような日々も終わり、最終出社日がやってきた。ここまできたら、不安や焦りはなく、ただこの地獄から脱出できることに安堵を覚えるのみであった。当日、私の部下のE君が、突如、首を伝えられた。即日首のパターンには、初めて遭遇した。もう1人の部下であるS君も、1か月後に辞めることになった。ちなみに、私たちが退職した次の日に入社した若い男は、2週間で辞めたそうだ。

7社目① 50代中半

 ゆでガエルになりたくないという気持ちで臨んだ転職であった。初日、9時就業開始のところ、8時20分に、出社ということで、7社目の会社生活が始まった。会議室に通されると、後に部下になるS君が既に出社していた。その後、これも部下になるE君、そして、経理の女性が出社してきた。皆、真面目そうで、雰囲気は、悪くない。8時50分、全社朝礼ということで、TV会議と事務所の皆が集まる形での朝礼が始まった。その中で、私の上司が紹介された。たしか、私の直属の上司は、社長だったはずだが。。。まず、ここで、軽く衝撃を受けたが、まずは、状況を把握しなければならない。しかし、不信感と不安が沸き起こるのを抑えることはできなかった。
 その後、9時過ぎから、TV会議越しであるが、東京の営業部隊への挨拶を行う。TV会議室に入室して気になったのだが、私たちは、営業会議中に割り込み、挨拶をしたようで、どうも、その会議は、かなり早くから行われており、ここでも、少し嫌な予感がした。実際に、次週から参加必須となったのだが、その会議は、毎週週初めに、朝7時(時には、6時30分)から行われているものだった。社員の雰囲気は、一様に、真面目そうで、良い感じであったのが、第一印象であった。
 その日から、2日間、社長直々に、研修が行われた。商品や業界を学ぶということなのだが、社長の気の短さが、十分感じられる、かなりのプレッシャーがあるものだった。部下のE君などは、いきなり降られた社長の質問に”わかりません”と答えたところ、いきなり、”わかってないのか、考えてないのか、どっちや!”と厳しく怒鳴られていた。これは、後日、常に、彼をからかう時の常套句にはなったものだが。。。とにかく、気の休まることのない時間だった。途中、休憩時間に、トイレに行ったのだが、個室にいると、突然、ある営業が、”塞翁さん、社長がお呼びですので、すぐ来てください”と大声で、外から叫んできたのには、驚いた。その日は、昼から、研修の一環として、顧客工場の見学を、その日に入社した4人で行い、現地での解散となった。帰り道、経理の女性が、”面接したその日に入社が決まった。この会社は、ブラックではないか?”と、訴えると、他の人間も同じ感想を持っている様子だった。上司格の私としても同じ感想を持つ中、不安がつきない初日であった。
 2日目の朝礼。営業マンの報告に対して、容赦のない社長のいきりたった罵倒が発せられた。以後、この会社で、朝夕聞く、罵倒の始まりだった。そのうち、仕事の内容がはっきりしてくる。新人2人をつれての新規開拓が、私のミッションになるようであった。面接時には、新規は、ほとんどないと聞かされていたため、ここも、聞いていた話と違う点であった。
 研修の一環ということで、1か月間の既存営業マン達との同行営業が始まった。罵倒にまみれた朝礼の後、社用車で、顧客回りを行う。そこで、営業マン達から、会社の実態を聞くことになる。なにげなく、休日の話になったが、話がかみ合わない。この会社は、土曜日は、休日なのだが。。聞くと、その営業マンは、土曜日は、休んだことがないようだった。やることがなくても出社するとのことだった。平日も終電近くまで残っており、長い間、日曜日以外、家族と、晩飯を食べたことがないとのことだった。理由を聞くと、営業は、そういう習わしになっていると、寂しそうに言う。他の営業マン達も異口同音に同じ状況であり、”試用期間が明けると、塞翁さんも、そういう状況になる”ということであった。
 1週間も経たないうちに、これは今までにないまずい状況になったことを悟った。なによりも、朝夕の罵倒を聞くのが、堪えがたかった。今は良いが、そのうちに、自分に降りかかることが容易に想像された。仕事も、新規開拓オンリーであり、業界顧客名簿からの飛び込み営業である。実際に電話をかけてみると、そこは既に、過去の営業マン達が、電話をかけ尽くしており、業界では悪名高い押し売りの会社との評判で、アポを取るのも容易でない状況であった。会社の売り上げは、一部の優良顧客からの定期収入で賄われており、そこは古株の営業マンが手放さない。新しい営業マンは、何度も同じ場所に突撃しては、散り、1年以内の短いサイクルでやめていく。会社の年齢構成が比較的高いのは、この会社の風土に慣れたベテランが、各部署に残っているからであった。案件を紹介してくれた銀行系エージェントには、早速、状況を伝える。何かあれば全社的に、サポートするという言葉は得たが、今更言われてもとの思いで不安はつきなかった。

6社目② 50代中半

 このような生活が、数年、続く。苦労しながらも、自分の立ち位置をつくることができ、周囲も良い人が多く、プレッシャーもない気楽な立場ではあったが、心のどこかに、寂しいものが、常にあった。会社のラインには入れない。会社方針もあり、年齢的に、将来性もない。余程の実績をあげても、先は見えていた。自分より年若者が上司格となっているストレスもあった。いわゆる役職定年状況だ。自分では、まだまだやれるという気も、捨てきれないでいた。このまま不満を持ちながら楽な生活を続け、定年までいるのか、あるいは、再度、組織の中心で活躍することを目指すか。。
 結局は、後者を選択した。当時、よく言われていた「ゆでガエル世代」に甘んじたくはなかった。しかし、このような転職動機は、普通、周囲には理解されない。旧知のエージェントに声をかけるも、前は協力的であったが、今回は、反応がない。6社目を紹介してくれたエージェントも転勤していた。最大手のエージェントには、明らかに、つきあいを拒まれた。50を超える年齢、転職回数6回に加え、転職動機が明確ではない人間は、売れない。新たなエージェント探しをすることになる。過去に登録していた転職サイトに再登録するとともに、今度は、BIZREECH等新しいメディアを活用する。BIZREECHには、転職サイトの情報が集約されており、重宝した。

  今まで通り、良さそうな案件には、かたっぱしから応募し、反応を待つということを繰り返す。世間的には、好景気と言われていたが、年齢、回数、曖昧な転職理由三重苦のおっさんにとっては、非常に厳しい状況であった。しかし、1か月に1案件程度は、良さそうな案件があったため、いつかは、良い案件が来そうな気もしていた。焦る理由はないため、ゆっくりと活動を続けた。 ある程度の規模の会社は、組織に入ってから苦労が多いと考え、小規模企業にターゲットを絞り込み、何社か面談までたどり着く。が、本社を見て、愕然とすることが多かった。ある程度の見栄えの悪さは、覚悟していたが、その雰囲気は、やはり、私の許容範囲を超える会社も多くあり、それだけで落ち込んだものだ。転職回数は多くはあったが、今まで恵まれた環境の中で、仕事をしてきたことを、改めて、感じたものだ。
 ある商社案件で、社長の息子である専務と面談。経験してきた商品が違うということで、その場で、NGを出されたことがあった。そんなことは、職務経歴書で確認しとけよという気持ちもあり、また、ルール違反だとも感じたため、即座に、こちらも、経歴書の返還を要求したということがあった。写真を渡すのがもったいなかっただけなのだが、先方はかなり焦った様子であった。あるサービス会社では、面談中(最初から)、お互い、これは合わないと感じ、10分程度で終わった。あるIT企業では、面接中、ドアの向こう側で、顧客が帰社する気配と共に、”ありがとうございました!”と数人が、異常に大きな声で挨拶する様子が聞こえてき、ドン引きしたものだ。
 紹介される会社も、怪しげなものが多くなった。Webや会社調査だけでは、調べきれない。そんな時、ある銀行系のエージェントから、ある案件を紹介された。関西本社であり、商材等も面白そうで、営業の責任者であり、会社も成長基調にあるということなので、早速応募することとした。銀行系エージェントが紹介してくるという安心感もあった。
 面接は、初夏の暑い日だった。事務所の入っている立派なビルの前で、エージェントと作戦会議の後、面接に臨む。若い社長から、いきなり、「なぜこんなに転職回数が多いのか?何も問題なければ、転職はしないはずだ。」と言われた。「当然問題はあったが、それ以上に、自分の力を発揮する場を求め続けた結果だ」と応じた。転職回数の多い人間のつらさを感じる。その後、面接は、とんとん拍子に進み、結局、社長面接1回だけで、合格することになる。社長の気の短い様子に少し嫌な予感はしたが、率直な人と前向きに理解した。ネット情報等を確認すると、良しあし半々ぐらいの会社評価であった。悪く書いているものもあるが、すごく高評価な書き込みもある。ホームページも洗練されており、平均年齢も、そんなに若くない。長く働いている人もいるようだ。最後は、エージェントの評価を信じて、入社することにした。確か、この時、「ブラックではないですね?」とズバリと質問したものだ。
 5年ほど世話になった会社を辞める。何人かと飲みに行き、あらためて、良い会社だったと実感した。もし、大学卒業後直ぐにこの会社に入社していたら、楽しい会社生活が送れていたかもしれない。

6社目① 50代前半

 正月明け、初出であった。新しい事務所は、本社兼工場のかなり大きな敷地の中にあった。守衛に挨拶をし、受付にて、名乗る。ワンマンオフィスとは、大違いである。事務所に通され、軽く挨拶をした後、正月明けの集会ということで、敷地内のホールに通され、多くの人の前で、就任の挨拶を行う。その後、1か月ほど、工場見学等研修が組まれており、久しぶりに、古き良き日本の会社に戻ってきたと感じた。敷地内には、多くの会議室がある。ワンマンオフィスを思い出し、感慨深かった。
 仕事の方は、取締役の直下で、事業企画を行うのであるが、特に、決まったものがあるわけではなく、最初は、新規企画チームとのコラボの模索から始まった。新規企画チームは、経験の浅い若い人達の集まりで、やることがなく、自分のできる仕事だけしているという状況だった。私が採用されたのは、このチームの活性化が大きな目的だと推察された。皆、日本企業の悪いところである「自分の経験や能力を超えることには挑戦せず、やってるふりをすれば、嵐はそのうち過ぎ去る」に徹している人達だった。一方、私も、商材のカテゴリーの経験がないということもあり、新規事業のアイデアは直ぐには浮かばず、メインの仕事は、営業企画的なものが中心となった。運よく、営業のしくみ自体、昔ながらの営業スタイルであったため、企画、実行の余地は多くあり、取締役のバックアップあり、このような仕事で、日々過ごした。この営業企画の仕事も、後日、役に立つことになる。どの企業も、営業の課題は、似たりよったりだ。それまで学んだ理論や実践は、どこの会社でも通じるものであると感じる。
 1年も過ぎない頃、取締役が解任された。転職者にとって、パトロンがいなくなるほど、厳しいものはない。新規企画チームも解体され、私には、「何か新しいことをする」というミッションだけが残る。周囲は、私より、若年のものがほとんどで、誰も、頼りにならず、かといって、何かを指示されるということもないという状況となった。取締役の構想も忘れ去られ、私は、完全に、この会社にとって、”招かざる客”となっていることを感じた。かなり不安になったものだが、当時知り合ったキャリアコンサルタントが「塞翁さんは、転職がうまいので、何とかありますよ」という一言が妙に心に響いた。「そうか。俺なら、最悪の場合、もう一度、転職できる」と。
 その頃、ある開発者が試作を完成させていたが、売り先や展開がないということで、置き捨てられていた商材があったため、この商材を、前々職、前職からの顧客へ提案、また、全くの新規顧客開拓を行っていった。50を過ぎたオッサンが、商材の売り込み電話をかけ、アポ取り、提案活動を行う。その頃、新たに知り合った商社や商材に興味を持った営業なんかからも、次々と案件が来るようになってきた。このような過去何度かやってきた新規開拓を、2、3の商材ネタを核に行うことに、ほとんどの時間を費やした。いつか見た景色ではあったが、知らなかった業界や顧客に触れることができ、それなりに楽しい面もあった。この頃になると、私の立場、会社が変わる中、付き合い続けてくれるお客様なんかも複数あり、何ともいえない面白みを感じたものだ。