あるジョブホッパーの軌跡

7転8起の人生

6社目① 50代前半

 正月明け、初出であった。新しい事務所は、本社兼工場のかなり大きな敷地の中にあった。守衛に挨拶をし、受付にて、名乗る。ワンマンオフィスとは、大違いである。事務所に通され、軽く挨拶をした後、正月明けの集会ということで、敷地内のホールに通され、多くの人の前で、就任の挨拶を行う。その後、1か月ほど、工場見学等研修が組まれており、久しぶりに、古き良き日本の会社に戻ってきたと感じた。敷地内には、多くの会議室がある。ワンマンオフィスを思い出し、感慨深かった。
 仕事の方は、取締役の直下で、事業企画を行うのであるが、特に、決まったものがあるわけではなく、最初は、新規企画チームとのコラボの模索から始まった。新規企画チームは、経験の浅い若い人達の集まりで、やることがなく、自分のできる仕事だけしているという状況だった。私が採用されたのは、このチームの活性化が大きな目的だと推察された。皆、日本企業の悪いところである「自分の経験や能力を超えることには挑戦せず、やってるふりをすれば、嵐はそのうち過ぎ去る」に徹している人達だった。一方、私も、商材のカテゴリーの経験がないということもあり、新規事業のアイデアは直ぐには浮かばず、メインの仕事は、営業企画的なものが中心となった。運よく、営業のしくみ自体、昔ながらの営業スタイルであったため、企画、実行の余地は多くあり、取締役のバックアップあり、このような仕事で、日々過ごした。この営業企画の仕事も、後日、役に立つことになる。どの企業も、営業の課題は、似たりよったりだ。それまで学んだ理論や実践は、どこの会社でも通じるものであると感じる。
 1年も過ぎない頃、取締役が解任された。転職者にとって、パトロンがいなくなるほど、厳しいものはない。新規企画チームも解体され、私には、「何か新しいことをする」というミッションだけが残る。周囲は、私より、若年のものがほとんどで、誰も、頼りにならず、かといって、何かを指示されるということもないという状況となった。取締役の構想も忘れ去られ、私は、完全に、この会社にとって、”招かざる客”となっていることを感じた。かなり不安になったものだが、当時知り合ったキャリアコンサルタントが「塞翁さんは、転職がうまいので、何とかありますよ」という一言が妙に心に響いた。「そうか。俺なら、最悪の場合、もう一度、転職できる」と。
 その頃、ある開発者が試作を完成させていたが、売り先や展開がないということで、置き捨てられていた商材があったため、この商材を、前々職、前職からの顧客へ提案、また、全くの新規顧客開拓を行っていった。50を過ぎたオッサンが、商材の売り込み電話をかけ、アポ取り、提案活動を行う。その頃、新たに知り合った商社や商材に興味を持った営業なんかからも、次々と案件が来るようになってきた。このような過去何度かやってきた新規開拓を、2、3の商材ネタを核に行うことに、ほとんどの時間を費やした。いつか見た景色ではあったが、知らなかった業界や顧客に触れることができ、それなりに楽しい面もあった。この頃になると、私の立場、会社が変わる中、付き合い続けてくれるお客様なんかも複数あり、何ともいえない面白みを感じたものだ。